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夢と記憶のあわい ⑤

last update Last Updated: 2025-07-14 22:54:36

リノアはゆっくりと立ち上がり、湿った空気の中に身を滑り込ませるようにして、苔の張りついた小径を進み始めた。

森と水路の網が重なり合う、このフェルミナ・アークという禁足地に、また一つ新たな気配が生まれつつあった。

──エレナは一体、どこに行ったのだろう?

リノアは周囲を見渡した。

影に囚われていたはずのエレナが、どこにも見当たらない。

代わりに残されていたのは、足跡の痕跡。湿った地面の一角にかすかに残る踏み跡が深く刻まれている。

この禁足地に、私とエレナ以外の人間がいることは考えづらい。リノアは、ためらうことなく、それがエレナのものだと悟った。

 軽やかで、ひと筋の迷いも感じさせない踏み跡──まるで誰かの呼ぶ声に応えたかのような軌跡だ。

リノアは残された踏み跡の先を見つめながら考えた。

エレナは影に捉われていた。どうにかして影から脱出して逃げたと見るのが妥当だ。若しくは影を倒した後、新たな敵が出現でもしたか……

リノアは足跡を頼りに慎重に歩を進めた。

苔むした地面に残る微かな乱れ、湿った空気に溶ける人の気配。それらが確かに誰かがここを通ったことを物語っていた。

「エレナ……」

声は森の奥へ吸い込まれるばかりで、どこからも返事はない。

リノアは何度も名前を呼んだ。

名を呼ぶたびに、胸の奥にじわりと冷たいものが広がっていく。

影に捉われたエレナ──その光景が脳裏に焼き付いていて離れない。

リノアはその時の記憶を手繰るように目を閉じた。

エレナの顔は穏やかに見えた。どこか夢を見ているような、遠く静かな微笑み──だけど、それが安らぎなどではないことをリノアは本能で感じていた。

あれは逃避だ。

苦しみに晒されながらも、それを見ないようにしていた表情……

過去の痛みも、哀しみも、まるで無かったことにするかのような都合の良い世界。そこに留まれば何も傷つかずに済む。影に幻を見せられていただけ。

本当の幸せを掴んだわけではない。そんなものは偽物だ。

エレナは大丈夫だろうか。

まさか影に取り込まれ、あのまま、どこかへ連れ去られたのでは……。

「お願い……エレナ……」

自分でも驚くほどの弱々しい声だ。森に響いた声は、どこまでも届かずに沈んでいった。
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  • 水鏡の星詠   夢と記憶のあわい ⑤

    リノアはゆっくりと立ち上がり、湿った空気の中に身を滑り込ませるようにして、苔の張りついた小径を進み始めた。森と水路の網が重なり合う、このフェルミナ・アークという禁足地に、また一つ新たな気配が生まれつつあった。──エレナは一体、どこに行ったのだろう?リノアは周囲を見渡した。影に囚われていたはずのエレナが、どこにも見当たらない。代わりに残されていたのは、足跡の痕跡。湿った地面の一角にかすかに残る踏み跡が深く刻まれている。この禁足地に、私とエレナ以外の人間がいることは考えづらい。リノアは、ためらうことなく、それがエレナのものだと悟った。 軽やかで、ひと筋の迷いも感じさせない踏み跡──まるで誰かの呼ぶ声に応えたかのような軌跡だ。リノアは残された踏み跡の先を見つめながら考えた。エレナは影に捉われていた。どうにかして影から脱出して逃げたと見るのが妥当だ。若しくは影を倒した後、新たな敵が出現でもしたか……リノアは足跡を頼りに慎重に歩を進めた。苔むした地面に残る微かな乱れ、湿った空気に溶ける人の気配。それらが確かに誰かがここを通ったことを物語っていた。「エレナ……」声は森の奥へ吸い込まれるばかりで、どこからも返事はない。リノアは何度も名前を呼んだ。名を呼ぶたびに、胸の奥にじわりと冷たいものが広がっていく。影に捉われたエレナ──その光景が脳裏に焼き付いていて離れない。リノアはその時の記憶を手繰るように目を閉じた。エレナの顔は穏やかに見えた。どこか夢を見ているような、遠く静かな微笑み──だけど、それが安らぎなどではないことをリノアは本能で感じていた。あれは逃避だ。苦しみに晒されながらも、それを見ないようにしていた表情……過去の痛みも、哀しみも、まるで無かったことにするかのような都合の良い世界。そこに留まれば何も傷つかずに済む。影に幻を見せられていただけ。本当の幸せを掴んだわけではない。そんなものは偽物だ。エレナは大丈夫だろうか。まさか影に取り込まれ、あのまま、どこかへ連れ去られたのでは……。「お願い……エレナ……」自分でも驚くほどの弱々しい声だ。森に響いた声は、どこまでも届かずに沈んでいった。

  • 水鏡の星詠   誰かのために動く時 ⑩

    「グレタは村を統べる立場の者だ。その人物が禁足地に自ら赴くなど常識ではあり得ない。だが彼女は行った。そこまでして、果たさねばならない目的があったということだ」男の言葉にアリシアが息を呑んだ。「肝心のグレタたちの足取りだが、残念なことに途絶えてしまってな。グレタたちも足がつかないように様々な手を施しているということなのだろう。ただヴィクターだけは別だ。こいつはどうも別行動を取っているみたいだな」アリシアは地図に視線を落としたまま、男の言葉に思考を巡らせていた。グレタたちの足取りが途絶えたという事実は、耳にするだけでも冷たい不安を呼び起こす。だが、ヴィクターだけが別行動を取っている──その情報は、安心とは呼べないまでも、わずかに張りつめた感覚を和らげてくれた。もしヴィクターが単独で動いているのであれば、グレタの計画から距離を置いている可能性もある。危険の中心にいるのは、あくまでグレタ──ヴィクターの行方が明らかになれば、混迷する状況に手を掛ける糸口になるかもしれない。「そうなると、グレタは、またエクレシアに戻ったのかもしれないってことね」アリシアは誰ともなく言葉を漏らした。アリシアの問いに、男はしばらく無言のまま思案を巡らせていた。椅子に身を預けたまま、視線をどこにも向けず、言葉を選ぶように沈黙が落ちる。しばらくして、まるで何かを確かめるように口を開いた。「……仮に戻ったとしたら、厄介なことになりそうだな」その声には可能性を慎重に織り込む冷静さと、避けがたい予感が潜んでいた。「グレタは目的を果たすために、より深部へ踏み込んだのかもしれん。エクレシアでは手がかりを得られなかったのかもしれんな」男の言葉を受けたアリシアは、胸の奥にじわりと広がる不安を感じた。冷たいものが胸元を這うように広がっていく。「最悪の展開として考えられるのは……グレタがラヴィナとの接触を試みている可能性だ。グレタの目的次第では、状況が一変する。あらゆる均衡が、崩れ始めるだろう」男は椅子に深く腰掛けたまま、目を逸らさずに言葉を発した。その静かな姿勢には、迫る危機を見据える者の張り詰めた気配がある。

  • 水鏡の星詠   誰かのために動く時 ⑨

     男はしばらく黙っていたが、短く息を吐いた後、言葉をこぼした。「そうか……すまんな。余計なことを聞いた。俺としても、この地を蹂躙するような連中を心良く思っちゃいない。協力はさせてもらう」 ほんの一拍置いてから、男は続けた。「それで……リノアとエレナってのは、腕は立つのか?」「それなりに戦えるはずよ」 エレナは弓を自在に操る腕前を持ち、遠距離からの精密な射撃で敵を翻弄する。彼女の視線は常に冷静で、狙った獲物を逃すことは滅多にない。恋人のシオンが森の奥深くの危険地域に足を踏み入れる時は必ず帯同していたほどだ。 その一方でリノアの能力は未知数だ。 本人も気づいていない特異な力が備わっているのは確かだが……。 時にリノアは周囲に奇妙な違和感を生じさせ、見る者の認識をかき乱した。 リノアと行動を共にし、それを肌で感じたことが何度かあったのだ。 ある日、風のないはずの森で、木々の葉が急にざわめいたことがあった。 何か、おかしいと思った次の瞬間、足元の土が波のように揺れ、目の前の視界に異様な光景が広がった。 風景の一部が別の層にずれたような錯覚——いや、錯覚と呼ぶにはあまりに確かな異常だった。 液体のように揺らめく空── 突如として数十もの蝶に変わり、空高く舞い上がった一頭の獣── その蝶たちは重力を拒むように空へ広がり、森の色彩さえ塗り替えていった。 あれは一体、何だったのだろう。森そのものが、リノアの存在によって再構成されているかのようだった…… リノアは何事もなかったかのように平然としていたが、あれは紛れもなく現実だった。幼い頃の体験とはいえ、あれが夢であるはずがない。 あの時、確かに私はリノアに何かを見せられた。「さっきも言ったが、ラヴィナはこのアークセリアにとって重要な位置を占めている人物だ。フェルミナ・アークに入ったすべての者が彼女に辿り着けるわけじゃない」 男は身体を椅子に預けたまま言葉を紡いだ。 その声は淡々としているようでいて、どこか警告のようにも聞こえた。「ラヴィナに辿り着くまでには、いくつもの試練が待っている。しかも屋敷に辿り着けたとしても、そう簡単に会えるわけではない。まずは召使いの一人に会って認められること。それがラヴィナと会うための最低条件となっている」 静寂が再びふたりの間に落ちる。 それは、道のりの険

  • 水鏡の星詠   誰かのために動く時 ⑧

    「すでに動き出した者がいるが、あれは君たちの仲間か? 二人の女がフェルミナ・ア―クに入ったと報告を受けている」 空気の膜を押し破るように男が口を開いた。「ええ、そうよ」 アリシアは声色を変えずに答えた。 アリシアの動きは最小限だった。微細な表情の変化も、言葉を継ぐ間の沈黙も、すべてが意図的に抑えられている。 必要以上に情報を渡すつもりはない。アリシアの態度に、それは現れていた。「その二人はラヴィナに会いに行ったらしいな」 男は少し間を置いて話した。「ラヴィナ?」 その名に聞き覚えはなかった。 予想外の問い返しに、男の表情がごくわずかに変わる。「……何だ、知らないのか」 男はあざけたわけではない。意外そうな表情をしている。 鉱石に関心がない──。きっと、そう受け取ったのだろう。そして、フェルミナ・アークを巡る鉱脈の事情や、アークセリアに広がる自然破壊の問題についても、私がほとんど把握していないことが、男に伝わったはずだ。 アリシアは言葉を返さなかった。 実際にラヴィナの名も、アークセリアの成り立ちやその歴史も、実のところ詳しくは知らない。 思い返せば、ここに来るのは舞踏会の招待に応じる時くらいで、深く関わる機会もなかった。 そんな私の反応を男は意外に思ったのだろう。「ラヴィナってのはフェルミナ・アーク及び、その周辺を統括する管理者だ。この地に眠る希少鉱石の流通や保護について、誰よりも精通している。だから自然破壊には人一倍、敏感だ。今は気が気ではないだろうよ。彼女の判断一つがこの地域の均衡を左右すると言われている。それほどの影響力を持つ人物だ」 男は椅子にもたれたまま、正面に立つアリシアを見上げた。 視線に動きはない。だが言葉の一つ一つが、その眼差しと共に体温を奪うように響いてくる。「一つ聞いてもいいか?」 男の言葉の奥には、興味以上のものが含まれている。「君たちは自然に関心があるわけじゃなさそうだな。だったら、どうしてヴィクターを追うんだ? そいつが、ここで何しようが関係ないはずだが」 その声に感情はない。ただ論理の綻びを指摘するものだった。「関心がないわけではないけど、正直に言って、それが理由ではないわ」 アリシアは短く息を吐き、男の目を真っすぐに見返した。 懐かしさとも痛みともつかぬ感情が、その瞳の奥に宿る。

  • 水鏡の星詠   夢と記憶のあわい ④

     リノアの瞳はまだぼやけていて、意識の端には霧のような余韻が残っていた。 混乱は消えず、胸の奥には、まだ焼け焦げた記憶の残響が渦巻いている。 涙は流れず、身体の感覚もまだ鈍いままだ。だけど、この感覚は何だろう? 胸の奥を締めつけていた重苦しいものが消えている。 リノアは心が軽くなっていることに気付いた。 燃えたのは身体ではなく、記憶? …… もしかしたら私が見たのは、あの時の選択が導いた、もう一つの未来だったのかもしれない。 オークの木の下で待ち続けなかった、その先に広がっていた運命の断片…… 父と母は決して私を捨てたわけではない。 必死に、守ろうとしてくれていたのだ。 リノアは、ようやく気づいた。 あの時、母の言葉を守って待ち続けたという選択は、間違いではなかったということに。 幼い頃のあの日、母は確かにオークの木の下へ私を連れていった。 安全な場所に残して、ひとり静かに立ち去り、戻って来なかった、その理由── あの映像が示していたものが真実だとすれば、答えは明白だ。 母は父と共に何者かに捉えられていたのだ。 幼かった私は、それが見捨てられたことのように感じてしまった。けれど今は違う。 あれは母が私を守るために選んだ、最後の手段だった。あの選択の中に、どれだけの決意と苦悩が込められていたのか。今なら、分かる。 記憶の縁に浮かんでくるのは、両親を捉えたあの者たちの姿── 森を無残に切り裂いていた人影たちとは異なる。 彼らの纏っていた服には見覚えがあった。 くすんだ紋章、生地に刻まれた古びた意匠── それが何を意味するかを、物心ついてから学んだ書物や人々の語りの中で、リノアは知っていた。 それは、戦乱の時代に争った者たちの装束にほかならない。 彼らはかつて、猛威を振るい、多くの民に恐れられていた。 戦いが終わった後、彼らの勢力は拡大の途を遂げ、存続していくものと見られていた。 しかし、火種は外にはなかった──それは内側に潜み、静かに燻っていたのだ。 戦後、彼らの中で始まった激しい権力争いは、組織の骨を砕き、やがて崩壊へと導いていった。 権力争いに敗れて歴史から消えたはずの集団。 今となっては、誰もが彼らは滅びたと信じている。 しかし本当に、そうだろうか? 最近、森の奥に見かけるようになった人影。 ひと目では

  • 水鏡の星詠   夢と記憶のあわい ③

     地面に爪を立て、リノアは叫んだ。 喉が焼けるように熱い! 叫びは言葉にならず、ただ炎の奔流へと呑み込まれていくのみ。 まるで終わりのない悪夢……──父と母は無事なのだろうか。 リノアの胸の奥に焦りの感情が渦巻く。 リノアは焼けるような空気をかき分け、必死にその姿を探した。 しかし、そこにいたはずの父と母の姿が、どこにも見当たらない。幼き日の自分も、父と母の元に向かって行ったはずなのに…… まるで最初から、そこに何も存在しなかったかのように、ただ森だけが燃えている。「一体、どこに……。確かに、そこにいたはずなのに……」 歪んだ空気の中で、リノアの思考が揺らぎ始める。 リノアは周囲を見渡した。 地面の裂け目がぼんやりと揺らぎ、木々の輪郭も霞んでいる。燃え盛る炎の映像と音だけを除いて…… リノアの意識はその曖昧な狭間で波に呑まれるように漂った。 何が真実で、何が幻想なのか、それすらも判然としない。 肌が焦げ付く、あの痛みの感覚も、いつの間にか薄れている。 火の奔流に包まれている最中だというのに、一体、これは……。身体が現実と乖離している…… この世界の端に独り、浮かんでいるような不思議な感覚── リノアはその感覚に抗わず、静かに身を委ねた。すると程なく、炎の中心に奇妙な揺らぎが現れた。   風に抗うようにゆっくりと逆巻く炎── 火の奔流は、一点を起点に風と逆向きの軌跡を描きながら、空間そのものを軋ませるように捻じれていった。 現実がほどけていく始まりかのように。 その先に広がっていたのは記憶とも夢ともつかない、過去が未来を侵食した空間だった。 色はあるのに、名がつけられない。 光は差しているようでいて、照らすものはどこにもない。 時間は粒子のように漂い、触れようとするほどに空間に溶けていった。 そこにあるのは感覚だけだった。確かなものは、ここには何一つ存在しない。 リノアの輪郭もまた、次第に曖昧になっていき、誰かの遠い夢が残した残響として、揺らぎの中を漂っていた。──どこからか音が聴こえる。 意識が空間に溶け出していく中、遠くから聴こえる微かな囁き──これは言葉ではない。 リノアは輪郭を失った意識のまま、その音に導かれるように深く、そして静かに空間の奥へと沈んでいった。──何だろう? この懐かしい声…… 

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